滅私奉公は会社にとって迷惑

端から見ていて「よくあんなつまらないことをコツコツ飽きずにやってられるなぁ」と感心させられる人がいる。だが、そういう人は、決して「つまらない」と思いながらやっているわけではない。人間は自分が心底「イヤだな」と思うことは決してやらない。無理にやらされたとしても継続できない。率先してやっている人、ずっとそのことに取り組める人は、必ず何か楽しみを見出しているものなのだ。

外食チェーンのオーナー経営者から、以下のような話を聞いたことがある。彼は地方の高校を卒業するとすぐに上京、有名レストランに住み込んでコック修業を始めた。だが、来る日も来る日も皿洗いばかり。そんな状態が半年も続いた。同期で入った仲間は、この時点で大半が辞めていった。残った連中も「いつになったら料理をやらせてもらえるのか」とブツブツ文句をいいながら働いていた。嬉々として皿洗いに精を出していたのは彼一人だったという。

普通、こういうケースで彼のようなタイプは、まじめな勤務ぶりが買われ、大抜擢されるといった展開になるものだが、このレストランはそんなに甘くなかった。黙っていても外国で修業したセミプロ級が雇われたがるような店だったから、経験ゼロの皿洗いを一人前のコックに育てる気など、はじめからなかったのである。

彼は結局、皿洗いを1年半、その後は別の下働きを1年半やらされて辞めた。都合3年間勤めて半人前の料理人にもなれなかった。その後、彼はどうしたか。貯めたお金で小さな洋食屋を開業した。これが当たって店を次々と増やしていき、今では60数店舗のレストランチェーンを統括する経営者なのだ。

「最初は私も皿洗いがイヤでした。でも、すぐ気づいたんです。仕事だと思うからイヤなんだと。それで親戚の叔父さんとか、ごく親しい人から頼まれて手伝っていると思うことにしました。そんなふうに頭を切り替えたら、少しもイヤじゃなくなった。飯は食わせてくれるし、お小遣いももらえるし・・・」

彼は皿洗いをしているとき「10分間で何枚洗えるか」といったゲーム感覚をいっぱい取り入れていたという。また、別の下働きに移ったときは、「せっかくレストランにいるのだから・・・」とシステムをつぶさに観察して日記風に記録していった。料理の腕こそ磨けなかったが、レストラン経営のツボを会得した点で、3年間の下働きは決して無駄にならなかったのだ。私はこれを彼の遊び心のおかげと見る。

「仕事と遊びをちゃんと分けろ」という人がよくいるが、遊び心は仕事にも必要なことなのだ。特に好きになれない仕事、単調な仕事をするときは、楽しめるように工夫する遊び心をもつといい。ストで電車が止まると、線路を歩いてでも会社に出社する。病気になると這いずってでも会社へ行こうとする。かつてサラリーマンはこういう勤勉ぶりで、会社への忠誠心を表し、会社もそれを「よし」とした。

滅私奉公的な態度が評価されていたのだ。この考え方の背景には「会社のためになることは自分のためにもなる」という労使の暗黙の了解があった。終身雇用と年功序列が機能していた時代は、それでよかった。だが、リストラが当たり前の現在は、この考え方はもう通用しない。いくら滅私奉公したってリストラされるときはされるのだ。

そうなってから恨みがましいことをいっても始まらない。むしろ、今、滅私奉公的な考えの人間を会社は迷惑に思うだろう。なぜなら、そういう人間に限って会社に頼り切り、自分から進んで局面を切り開こうとしないからだ。これからは滅私奉公の考えは捨てて、自分のために会社を伸ばすことを考えよう。その余地がないような会社なら、こっちから三行半を突きつけてやればいい。

— posted by ラスター at 05:14 pm