仕事は男の中身を作り、遊びは男の行間を広くする

面白いアンケート調査結果がある。人気女性誌の編集長に「看板モデルの条件とは何か」と聞いたところ、色々な答えの中に一つ共通項があった。それは「私生活こそが重要」という答えだった。圧倒的に外見の美しさに目がいくモデルの仕事も容姿だけでなく私生活という日に見えない要素が大きく関わっている。豊かで幸せな人生を送っていると容姿の向こうにそれが透けて見える。

容姿の奥にある人間的魅力が看板モデルには必要らしい。しかし人間的魅力が大切なのはモデルに限ったことではない。男だって仕事ができるだけで十分とはいえない。言葉で簡単に言い表せないような魅力的な部分をもっている人間でないと決して良い仕事は出来ないものだ。

「四十歳を過ぎたら男は自分の顔に責任をもて」とよくいわれる。だがこの年齢を過ぎた多くの男性は鏡で自分の顔を眺め「やばいなあ」と思うのではないだろうか。自分で見る限り少しも責任がもてるような立派な顔をしていないと感じられないか?

だがこの点は心配することはない。顔というのは自分で見るのと他人が見るのとでは印象がかなり違うからだ。何かに没頭している時は、みんないい顔をしているものだ。自分で鏡を見るときとは違っているのだ。ただ逆に人を憎んだり嫉妬したり良くない心埋状態の時は、その表情も必ず顔に出る。普通の人は中々気づかないが観察力の優れた人、修羅場を経験したような人はすぐにそれを見抜く。

誰でも年齢相応の「いい顔」になりたいと思っているだろう。しかし中々思い通りにはならない。そこで勧めたいのは「大いに遊んでみる」ことだ。ここで遊ぶというのは何も「飲む、打つ、買う」のような遊びだけではない。人生のあらゆる営みを遊び心をもって臨むのがいいということだ。

もちろん「飲む、打つ、買う」でもいい。若いときからこの三つの遊びに徹底して励んできた人を知っているが、彼は仕事も人並み以上にできるし、中々の人格者でもある。そして味のある「いい顔」をしている。ところがその人から遊びの中身の話を聞くと信じられないほど下らない低俗もいいところ。軽蔑したくなるような内容なのである。今目の前に居るその人の言動とどうしても一致しない。だがその人は確信を持ってこう言うのだ。

「私は遊びから多くのことを学んだ。もし遊んでいなかったら、今の私はない」

若者に人気の蛯原友里さんというモデルがいる。際立った美形ではないが他のモデルには無いそこはかとない魅力がある。若い女の子達は彼女の発散する魅力を敏感に感じ取っているのだろう。私も彼女に好感をもった。そして思ったのが「この子はどんな育ち方をしているのかな?」ということだった。まもなくその一端がわかった。彼女がインタビューでこう答えていたのを聞いたからだ。

「これからお父さん、お母さんに恩返しをしたいと思っています。だって私をここまで育ててくれた親なんですから、恩返しをするのは子として当たり前のことでしょう?」

今時の女の子が言うセリフではない。こういうことがスラスラ言える育ち方をしたことが他のモデルと一味違う好ましい個性を感じさせ、若い女の子達にウケている理由なのだろう。見えない私生活が容姿や人格形成に関わることは男女とも変わらないが、やはり男女で差があるように思う。男性の場合はいくら低俗な遊びをしてきても、それらをみんな栄養にして「いい顔」になれる。だが女性の場合はどうも男のようにはいかないようだ。

このことは女性誌の編集長の見方と奇妙に合致する。彼らが言う「看板モデルは私生活が重要」ということは、私生活が荒れてくれば、それが透けて見えてしまうことだ。そうなっては女性読者対象のモデルには適さなくなるからもう使えない。だが男は違うと思う。どんなに低俗な遊びを繰り返してきても、どんな醜い修羅場を経験しても、そこから何かを学ぶ姿勢さえ持っていれば最終的には男の成長の味方をするのだ。

男の遊ぶ才能とは遊びから何かを学ぶ才能のことと言っていいだろう。その代わりただ遊ぶだけでそこから何も学べないボンクラ男はどんな女性からも軽蔑されるような情けない男になって行く。だから男はいい顔になりたかったらもっと積極的に遊んでみること。そして遊びから学ぶことだ。

作家の永井荷風という人は一生女に明け暮れた遊び人だ。それも晩年は娼婦ばかりを相手にした。公序良俗派人間からは指弾されて当然の行状だが忘れてならないのは彼が不朽の文学作品を数多く遣したことだ。彼は遊びに遊んだが仕事もちゃんとやった。その作品は人間の哀しさ、美しさが行間に惨み出ているような作品ばかりである。彼は行間の作家であり行間の美を彼は遊びから学んだのだ。文学に限らない。男にとって遊びとは人生の行間を学ぶことなのだ。

— posted by ラスター at 05:17 pm